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母校について

 
静岡県立富士宮北高等学校は、静岡県富士宮市宮北町にある県立高等学校。
敷地面積は全国2位の広さを誇る。野球部の専用グラウンドがあるなど部活動の設備も充実している。
学校名 静岡県立富士宮北高等学校
課程・学科 全日制の課程 普通科・商業科
校訓 覇気・信念・明朗

沿革

1937年11月17日 静岡県富士郡大宮町に、静岡県大宮工業学校と静岡県大宮商業学校設立
1942年 6月1日に大宮町が市制施行により富士宮市が誕生。これに伴い、富士宮工業学校、富士宮商業学校に学校名変更。
1948年 両校が合併し、富士宮実業高等学校に改称。(工業化学科・機械科・商業科設置)
1953年4月 県に移管。静岡県立富士宮北高等学校に改称。(普通科・商業科)

望月軍四郎について

創立者 望月軍四郎

本校の創立者である望月軍四郎氏は、明治12(1879)年8月15日、現在の富士宮市にあたる大宮地区に誕生しました。

当時の日本では、明治10年の西南戦争、翌11年の紀尾井町における大久保利通暗殺を経て、各地で国会開設運動が高まるなど、明治維新の混乱がまだまだ尾を引いていました。

その一方で、明治11年に東京株式取引所が設立され、翌12年に教育令が制定されるなど、産業と行政の両面において、着実に近代化が維し進められていた時代でもありました。

岳南地域においては、明治五年の学制発布にともない、軍四郎氏も通った岳賛詞が同七年に開校、翌八年に清水次郎長が富士山麓の大潟村で開墾を始めていました。

また、明治13年には神田川畔に製紙工場が設立されています。これは、和紙の原料となる三椏と良質の水が豊富だったことが大きく影響していますが、岳南地域における工業化のさきがけだったといえます。軍四郎氏も晩年、三椏工業という会社を地元に設立しています。

軍四郎氏は明治26年、14歳で東京へ奉公に出て、株式仲買の仕事を手伝い始めます。そこで自らの才を発揮し、のちに独立。大きな成功を収めることになるのですが、常に胸に抱いていたのは、自分を育ててくれた父母や郷土への感謝の思い。

その思いが、大宮商工学校設立という形となって表れます。

望月軍四郎翁の足跡

明治12年 8月15日、富士郡大宮町に生まれる。
岳麓洞(現大宮小学校)・明堂塾に学ぶ
明治26年 村上太三郎店に入る(住込奉公)
明治39年 8月、結婚(村上家養女 幸子氏)
明治43年 7月、サシ丸 望月商店設立・独立(築地小田原町)
大正7年 東京府より、北米経済の実業調査を委嘱される 
大正10年 帝国銀行を再建するなど経済界において活躍
教育界にも貢献、早大校賓となり勲三等瑞宝章を受章。
富士中(現富士高校)に寄付
昭和2年 ローマ法王庁より勲二等シルベストル勲章・紺受褒章を受章
昭和4年 日清生命社長就任。
京浜湘南電鉄をはじめ、精糖・炭鉱等の取締役歴任
昭和12年 大宮商工学校(現富士宮北高)創立。
村上記念育英財団設立(旧主に報いるため)
昭和14年 日中友好のため、技術者と医師養成を目的に各界と相談をはかる。
法政大学理事就任
三椏工業設立(郷土振興のため)
10月、南米親善使節として訪問
11月、大宮商工学校開校式に出席
昭和15年 1月30日、慶應病院に入院
2月1日、各界に惜しまれて死去